例えば、自分の例で言うと、ちょうど昨日この記事タイトルに思いあたった思考回路はこうです。
実家暮らしですが、弟の笑い声がうるさい→
注意すると少しよくなったがたまにうるさい(完璧を求めてしまう)→
例えばこれが読売新聞の「人生案内」に投函されたら「あなたが我慢しなさい。」と返ってくるだろう。→
嫌なら一人暮らしすればいい→
弱小アヒョリエイターなので3万くらいの家じゃないと安心して(重要)住めないのもあるが、これは別にいいんだけど
一人暮らしになる→誰も話す人がいないうえ(友達がいない)、誰とも話したくない→
人間、声を発して会話しないと
常に頭がボーッとし、集中力がなくなる。仕事どころじゃなくなる。
(一人暮らしの時に、身を持って経験済み)
→家にいても駄目、一人暮らししても駄目、誰かと住むなんてもってのほか→
これ、死ぬしかねぇな。
死ぬしか、根本的な解決にならない。
(くだらないって言わないで!いや、くだらなくなくない?
家にいるのが諸事情で無理→じゃあ、一人暮らしします。
でも一人暮らししても絶望が目に見えてるんだよ??しかも経験に基づいた絶望。積みじゃない??)
死ぬしか、根本的な解決にならないこれに行き当たったときの絶望感が君にわかるか。
これは、経験したことある人じゃないとわからないだろうね。
心の中で、血の気がスッと引く感じ。(?)
何やってもだめなんだなあってスッと引く感じ。
何のために生まれてきたんだろう、拷問のような人生だなって心の底からひしひし感じる。
この気持ちを経験したことある人はグッと身近に感じる。
※ただ、この「会話」問題は毎日カラオケに言って「声を出す」ことをすれば大丈夫かもしれない。
次、一人暮らしするときには防音部屋に住みたいし、実験しようと思う。&、「ぬいぐるみに話しかける」「ダンベルに話しかける」も一概にバカにできないかもしれない。
自分が一番最初に「あれ、死ぬしかないや・・・」と思ったのは中学生のとき。
働かないと生きていけない→
その社会生活が自分には根本的に無理
って心の底から思ったとき。
この絶望感はものすごいので、「できるなら、こんな気持ちは二度と経験したくない」と思いながら生きてきた。
けど、やっぱり無理だった。
一度死にたいと思った人間は基本的にだめだと思う。
希死念慮が消えないと思う。
宇多田ヒカルの歌に「どこか遠くへ 行けたらラクになるのかな そんなわけないよねどこにいたって私は 私なんだから」って歌詞があるが、まさにその通りだと思う。
でも、ほんの少しの望みにかけて「肉体が変われば、変われるのかもしれない。それは未知数である」と思っているのでジムに行く・・・のか!?行くぞお~!多分!
(多分)